福原愛:天才卓球少女にとって「夢の夢の夢の夢」だったオリンピック

低迷にあった日本の卓球を救った「愛ちゃん」

夢が「オリンピックでメダルを獲ること」に変わった2005年時の写真。自らの意思を表明したからか、試合を楽しんでいるように見える

低迷していた日本卓球界に登場した「天才卓球少女」福原愛。その幼少時からのすさまじい練習量と成功は、日本の卓球界を変え今日の隆盛を作った。夢だったオリンピック出場と挫折、その果てにつかんだ栄光。重荷を下ろした今、福原愛はもう一つの夢に向かっている。

「楽しむために来たんじゃありません」

2004年アテネ五輪。女子シングルスに日本勢史上最年少の15歳で出場した福原愛は、4回戦まで進み、韓国のカットマン金暻娥(キム・キョンア)に敗れた。堂々のベスト16だったが、福原愛にとって、それは世界との差をまざまざと見せつけられた敗戦だった

試合直後「オリンピックを楽しめましたか?」という記者の質問に対して、15歳の少女は「楽しむために来たんじゃありません」と悔しさをにじませた。前年の雑誌インタビューで「オリンピックは夢の夢の夢の夢、かな」と答えていた福原愛。その夢が実現した時、オリンピックは重く苦い記憶になった。この時、福原愛のオリンピックは始まったのだろう。

「試合を楽しむ」とはアスリートがよく言うことだが、その多くは試合前の緊張や敗戦後の悔しさを和らげるための自己暗示だ。あるいはまた、苦しさやつらさそのものを広い意味で「楽しむ」と表現する。押しつぶされそうな重圧や、身を焼くような絶望、それらを共有していない第三者が口にした途端、「楽しむ」は空疎な言葉となる。福原愛にはまさにそのように響いたはずだ。

そもそも福原愛は卓球を「楽しんだ」ことなどあったのだろうか。

「天才卓球少女」をつくった過酷な1000本ラリー

卓球がオリンピックの正式種目になったのは1988年ソウル五輪からだ。当時の日本の卓球は、かつての黄金時代の余韻も消えた低迷の時期にあった。それに加えて「卓球といえばネクラ」といった風潮で卓球人口が激減する事件もあり、日本卓球界は文字どおり「暗い」状況にあった。

福原愛は、まさにそのソウル五輪の年の11月1日、宮城県仙台市に生まれた。母が元卓球選手だったこともあり、兄が自宅の卓球台で練習していたのがきっかけで、3歳9カ月の時に卓球を始めた。当時、卓球のゴールデンエイジは7、8歳と言われ、この時期に卓球を始めないと一流選手になるのは難しいとされていた。だが、それより早く、つまり幼稚園児に卓球の練習をさせることなど誰も考えなかった。そんなことはできないと考えるのが普通だろう。

それが可能であることを福原親子は実証してしまった。しかもその練習量が並外れていた。一日4時間、多い日には8時間もの練習をただの一日も休まずに行ったのだ。その成果はめざましく、練習を始めて4カ月後には100本ラリー、8カ月後には1000本ラリーができるようになった。

1000本ラリーとは、1度もミスすることなく1000回連続で入るまでやる練習で、1球でもミスすれば最初からやり直す過酷なものだ。ボールを見続けているうちに目は乾き遠近感はなくなり、腕はこわばりミスの恐怖で全身が硬くなる。中級以上の選手でもやったことがある人は多くはない。福原愛はそれを4歳6カ月で成し遂げ、あろうことかその後、毎日行ったのだ。福原愛ほどその生涯に1000本ラリーを多く行った選手はいないだろう。

福原愛がマスコミに登場したのは1993年、4歳10カ月になる頃だった。全日本選手権バンビの部(小学2年生以下)でベスト16に入った時だ。卓球台からやっと顔を出す愛くるしい顔をした少女が懸命にボールを追いかけ、年上の小学生たちを次々と破る姿はあっと言う間に人々を魅了した。この少女のすさまじい練習量を知らずか、あるいはまたその練習量そのものを指してか、マスコミは福原愛を「天才卓球少女」と呼んだ。

福原愛の成功は、日本中の指導者たちに影響を与えた。現在、日本の卓球は、男女とも近年にないほど中国に肉薄しており、オリンピックの金メダルも狙えるところに来ている。その主力選手たちのほとんどは、福原愛がいなければ存在しなかったはずだ。低迷にあった日本の卓球を救ったのは彼女だったと言っても過言ではない。

期待に応え続けた卓球人生

そんな福原愛が人生で初めてオリンピックに接したのは、1996年アトランタ五輪だ。「日本チームの試合だけ見て、オレンジジュースを飲んでポップコーンを食べたのは覚えてる」と後に福原愛は回想している。7歳の少女にとってオリンピックは、過酷な練習から逃れることのできる貴重な息抜きだったに違いない。

福原愛が卓球を始めたのは自分の意思だった。「嫌になったらいつでもやめていい」と母に言われていたが、誰よりも人の気持ちに敏感な少女が、最愛の母の期待を裏切ることなどできるはずもなかった。

福原愛はその期待に応え続け、先述した全日本選手権「バンビの部」を3連覇すると、小学3年生で同「カデットの部(13歳以下)」で優勝、小学4年生でプロ宣言、小学5年生で同「一般の部」で大学生と社会人から小学生として初の勝利を上げるなど、まさに超特急でアスリートへの階段を駆け上がった。

初めて世界選手権に出たのは2003年パリ大会、中学3年生の時だった。「マスコミ受けを狙って選んだのではないか」との批判もある中での大抜擢だったが、日本選手でただ一人、女子シングルスでベスト8に入り、期待に応えた。

いよいよ翌年のアテネ五輪が現実味を帯びてきた時、口から出たのが「オリンピックは夢の夢の夢の夢」というもどかしいほど慎重な言葉だった。人からの期待に応え続けた福原愛の、それは期待を裏切らないための処世術だったのに違いない。

夢は叶えるもの

アテネ五輪での敗戦の後、福原愛の夢は「オリンピックでメダルを獲ること」に変わった。人からの期待、あるいは義務感で卓球をしてきたように見える福原愛が、本当に自らの意思で夢を語ったのはこの時だったかもしれない。

「実現する夢しか言わないんですよ。夢は叶えるものだから」という言葉どおり、それは2012年ロンドン五輪、2016年リオデジャネイロ五輪で実現した。自らが生み出したといってよい後進たちと一体となってつかんだ女子団体のメダルだった。

福原愛は15歳の時、卓球以外の夢を聞かれて「全日本みたいな大会で、自分の子どもを連れて、親バカして、旦那さんの応援をするのに憧れる」と語った。あまりに平凡な夢にインタビュアーは拍子抜けしたが、中学生にして卓球を「仕事」と表現するような非凡な人生を歩んでいた福原愛にとって、それは本心だったのだろう。

兄の練習にかかりっきりだった母親の気を引くために、3歳の福原愛は卓球をやりたいと言った。母親の愛が欲しくて始めた卓球は、やがて日課になり仕事になり、期せずして日本の卓球界を背負い、多くの人々に希望と感動を与えた。

今、その重荷を下ろした福原愛は、15歳の時に語った夢の実現に向かっている。そう、「夢は叶えるものだから」。

文=伊藤条太(Jota ITO)

※文中の福原愛の発言は、月刊「卓球王国」でのインタビューでのもの。

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