過去から現在まで、日本のアマチュアボクサーとして世界に名を残したのは、ミドル級の村田諒太になるだろう。日本人の一般的な体格上、長年、ミドル級をはじめとする重量級で好結果は得られないと言われていたが、村田は48年ぶりにその常識を超えて見せた。
◆プロフィール、経歴
村田は、1986年1月12日、奈良県奈良市に生まれた、2人の兄を持つ3兄弟の末っ子。ボクシングを始めたのは中学生になってから。中学でも当初は陸上部に所属していた。奈良市の大会で1500メートル走に出場し、それなりの結果を残していたが、長続きはしなかった。いわゆる“不良”になってしまった村田に対し、当時の担任だった北出忠徳教諭が声をかけ、自らやりたいこととして口にしたボクシングを始めることになる。
北出教諭の紹介で、元WBA世界スーパーフライ級王者の名城信男が主将をしていた奈良工業高等学校(現・奈良朱雀高等学校)ボクシング部が主催するボクシング教室に通い始めた。しかし、わずか2週間ほどで教室に顔を出さなくなり、約2か月後、練習に復帰するが足首を負傷し、以降、練習に顔を出すことはなくなった。だが、3年生になると、大阪の進光ボクシングジムでトレーニングを始め、ボクシング自体は辞めなかった。
中学卒業後は、南京都高等学校(現・京都廣学館高等学校)に進学。高校でもボクシングを続け、2年生になって、いよいよその才能が開花する。選抜・総体・国体の高校3冠を達成すると、3年次でも選抜・総体で優勝、計5冠を獲得する。その後、全日本選手権に出場し決勝戦まで進んだ。
そして、東洋大学経営学部経営学科に進学後、2004年には全日本選手権で初優勝。2005年に入ると、キングスカップで銀メダル。ホーチミン市で開催されたアジア選手権ではミドル級で銅メダルを獲得した。その後、2006年アジア大会、2007年世界選手権、2008年五輪北京大会アジア予選に臨むが、大きな結果を得ることができず、2008年3月で現役を引退した。
この当時からプロ転向の誘いがあったが、家族の反対もあり、2008年3月に東洋大学卒業後は、職員とボクシングコーチを兼任する形で大学に残った。しかし、2009年2月にボクシング部元部員による不祥事を受け、自身が現役選手として復帰する必要があると判断。復帰した2009年から3年連続で全日本選手権を制している。
プライベートでは2010年、東洋大学職員時代に4歳年上の佳子さんと結婚した。2011年に長男、後年の2014年には長女をもうけた。
2011年10月、世界選手権ミドル級で銀メダルに輝くと同時に、運命のロンドン五輪出場権を獲得した。そして、五輪本戦では第2シードで出場、日本人選手48年ぶりとなるボクシング金メダル獲得を実現するに至った。
金メダル獲得後、国際ボクシング連盟(AIBA)が設立に動いていたプロ団体APBへの参加を要請されていたが、2度辞退。さらに、村田自身が全日本社会人選手権出場に意欲を見せながらも、同時にプロ転向を模索していたことから、日本ボクシング連盟よりアマチュア選手としての引退勧告を受けた。村田は、この勧告の9日後にプロ転向を決め、三迫ボクシングジムに所属することになった。
2013年4月にプロテスト合格後、8月にプロデビュー戦を迎えた。当時、東洋太平洋ミドル級チャンピオンだった柴田明雄を2回TKOで下し、鮮烈なデビューを果たす。
プロデビューから12戦無敗9KOを挙げ、2017年5月に世界タイトル初挑戦。WBA世界ミドル級王者アッサン・エンダム(フランス)に挑むも12回判定で敗れた。しかし、10月のダイレクトリマッチで10回TKOで勝利し、世界タイトル獲得に成功。日本人としては、1995年12月の竹原慎二以来の約22年ぶりの2人目のミドル級世界王者誕生だった。
2018年4月に初防衛を成功したものの、当時同級3位だったロブ・ブラントとの2度目の防衛戦に失敗し、世界王座から陥落。敵地ラスベガスに乗り込んでの完敗だったことで、一時は引退も囁かれたが、2019年7月12日にエディオンアリーナ大阪で、現王者ブラントとのリターンマッチに臨むことになった。
◆ファイトスタイル
ガードを固めて、相手の攻撃を受け止め、少しずつ接近しプレッシャーをかける。そして、相手のボディを狙い、スタミナを奪いながら、右ストレートの強打で仕留めるパワー&プレス型のボクシングスタイル。プロ転向後、スタイル変更を求める声も多かったが、アマ時代同様にガードを固めて前に出ていくスタイルを貫いた。
軸のぶれないガードと強打という日本人離れした強靭なフィジカルを誇ることから、手数は少ないながらもプロでも戦えた村田。しかし、その手数の少なさ故に2018年10月のタイトルマッチでは、ロブ・ブラントに押し切られた。7月の再起戦ではどんなスタイルで挑むのかが注目される。
◆主な戦歴、成績
<アマチュア>
138戦 119勝 (89KO・RSC) 19敗
南京都高等学校(現・京都廣学館高等学校)で高校5冠達成
- 2004年 全日本選手権初優勝
- 2005年 キングスカップ銀メダル
- 2005年 アジア選手権銅メダル
- 2008年 現役引退
- 2009年 現役復帰
- 2009年から 全日本選手権3連覇
- 2011年 世界アマチュアボクシング選手権 ミドル級銀メダル
- 2012年 ロンドン五輪 ミドル級金メダル
<プロ>
16戦14勝(11KO)2敗
- 2013年4月 プロテスト合格 A級ライセンス獲得
- 2013年8月 プロデビューで東洋太平洋ミドル級チャンピオンだった柴田明雄を2回TKOで下し、プロデビュー戦で初勝利
- 2017年5月 WBA世界ミドル級タイトルマッチで世界タイトル初挑戦、アッサン・エンダム(フランス)に12回判定で敗れて、タイトル獲得失敗
- 2017年10月 WBA世界ミドル級タイトルマッチでアッサン・エンダムと再戦。7回終了TKOで勝利し、初の世界タイトル獲得
- 2018年4月 エマヌエーレ・ブランダムラ(イタリア)を8回TKOで下し、WBA世界ミドル級タイトル初防衛成功
- 2018年10月 ラスベガスでロブ・ブラントと2度目のタイトル防衛戦。12回判定で敗れてタイトル防衛失敗
- 2019年7月 エディオンアリーナ大阪で王者ロブ・ブラントとのWBA世界ミドル級タイトルマッチを予定
◆ロンドン五輪秘話・失いかけた金メダル
2012年8月11日、ロンドン五輪最終日前日。村田は、48年ぶりの歴史的偉業をかけたミドル級トーナメント決勝戦を迎えた。決勝のリングで対峙したのは、2011年のAIBA世界選手権ミドル級準決勝で破った相手でもある、エスキバ・ファルカオ(ブラジル)だった。
因縁の試合は1ラウンドで村田が、2ラウンドをファルカオが優勢に戦い、勝負は3ラウンドへ。最後は苦し紛れのクリンチを多用したファルカオのホールディング(腕やグルーブで相手の身体を押さえつける行為)が取られ、村田に2ポイントが加算。これで14-13で勝負が決し、48年ぶりの偉業が成し遂げられた。
ところが、ロンドン五輪閉幕後になってから、ブラジル五輪委員会がAIBAに試合結果の見直しを求めたことで、村田の金メダル獲得が幻に終わる可能性が浮上する。ファルカオ自身も「村田も俺を掴んでいた」と証言したが、この結果は覆ることはなく、村田の金メダルは改めて承認されたのだった。