2011年に女子ワールドカップを制したなでしこジャパン。サッカー女子日本代表の快挙は降って湧いたわけではない。1970年代に初の国際舞台を踏んで以降の積み重ねが実を結んだ。監督交代から8カ月ほどで臨んだ2008年の北京五輪は、栄光に至るまでの一つのターニングポイントだった。
北京五輪直前に東アジアを制覇し確かな自信を得る
サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」と言えば、柔和な表情が印象的な佐々木則夫監督の顔を思い浮かべる人も多いだろう。8年にわたってなでしこジャパンを率い、2011年には女子ワールドカップ(以下W杯)優勝に導いた。
2008年8月に開催された北京五輪は、佐々木監督が指揮をとるなでしこジャパンにとって大きな一歩となった舞台だった。日本代表コーチとU−20日本女子代表監督を経て、2007年の年末に監督に就任。佐々木監督はほどなくオリンピックという大舞台を迎えることになった。
新生なでしこジャパンは、北京五輪の半年前に中国で行われた東アジアサッカー選手権に臨んでいる。メンバーは前監督の大橋浩司氏が率いたチームとほぼ同じで、GKの福元美穂やDF池田浩美(旧姓は磯﨑)、MFの澤穂希と宮間あや、FWの荒川恵理子や大野忍らが中軸を担った。
決勝は北朝鮮、中国、韓国との4カ国による総当たり戦で行われた。初戦の北朝鮮戦は安藤梢と宮間と澤が得点。一度は1−2とリードを奪われたものの、3−2で勝利を手にしている。第2戦の韓国戦は荒川と大野がゴールを奪い2−0で勝ち点3を積み上げ、第3戦の中国戦は大野が2得点、永里優季が1得点を決めて、3−0で快勝を収めた。
オリンピックという初舞台を直前に控えての東アジアサッカー選手権の初優勝。大会MVPに澤が、大会得点王には大野が輝いた。前年のW杯ではドイツ、イングランド、アルゼンチンと同じグループリーグで1勝1分け1敗で敗退。世界との差を少なからず痛感していたチームにとって、3戦全勝での東アジア制覇は北京五輪へ向けて自信を得るために十分な結果となった。
ノルウェーに快勝して決勝トーナメントへ
北京五輪に挑むチームは東アジアサッカー選手権の優勝メンバーとほぼ同じ顔ぶれで構成された。守備陣には池田と安藤に加え、岩清水梓(あずさ)や矢野喬子(きょうこ)。中盤は澤と宮間を軸に、阪口夢穂や宇津木瑠美。前線には荒川と大野、永里と丸山桂里奈らが選ばれた。
4年前のアテネ五輪ではオリンピックで初の決勝トーナメント進出を果たしている。佐々木監督率いる新生なでしこジャパンはさらなる結果を求め北京へ降り立った。グループリーグは女子サッカー大国のアメリカと同じグループG。ニュージーランドとノルウェーも同組に入った。
初戦のニュージーランド戦は苦しんだ。序盤から主導権を握り何度かシュートを放ったが、逆に37分に先制を許してしまう。後半の56分にはPKから追加点を奪われた。0−2のビハインドを背負ったチームは、72分に背番号8の宮間がPKをきっちり決める。79分に大野に代えて荒川、82分に安藤に代えて丸山を投入し攻勢を強めると、86分、宮間の低いFKを澤がボレーで合わせて2-2に追いついた。土壇場で勝ち点1をもぎ取る勝負強さを見せた。
第2戦のアメリカ戦は0-1で敗戦。当時FIFA女子世界ランク1位を相手に善戦したチームの命運は第3戦のノルウェー戦の結果にかかる。勝てば無条件で決勝トーナメント進出が決まるが、ノルウェーは初戦でアメリカを2-0で下す番狂わせを起こしていた。
ノルウェーとの一戦は27分に先制を許す展開。苦しい立ち上がりとなったものの、直後の31分に宮間のパスを近賀ゆかりが決めてすぐに同点に追いつく。後半開始直後の相手オウンゴールでリードを奪うと、大野がドリブルシュート、大野のパスを澤がボレーシュート、大野のパスを原歩が決めて、5−1の快勝を収めた。
アメリカ、ノルウェーに次ぐ3位でのグループリーグ突破となったものの、3試合で7得点はグループG最多の数字だった。当時29歳の澤はもちろん、23歳の宮間、24歳の大野といった攻撃陣の存在感が光った。
アメリカ戦を前に「苦しい時には私の背中を見て」
開催国の中国との対戦となった準々決勝は完全アウェイの状態。苦戦が見込まれた。
だが15分、早くも試合が動く。均衡を破ったのは背番号10の澤だった。宮間からのCKを頭で合わせゴールネットを揺らした。完全アウェイの一戦で早々とリードを奪った日本は落ち着いた試合運びを見せ、80分にはゴール前の混戦からボールを運んだ永里が左足で冷静に決めて、2−0で中国を下した。
中国戦後の記者会見で澤は「もうアメリカには負けたくない。次は負ける気がしない。アメリカに勝って決勝に行きたいです」と話した。世界でベスト4。当時の女子日本代表にとっては実力以上の場所まで勝ち上がっており、「場違いでは?」と感じる選手も多かった。それでも、メダル獲得のチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。アメリカ戦を前に、澤はこうチームメートにこう伝えたという。
「苦しい時には私の背中を見て」
15歳で日本代表デビューを果たし、15年にわたって日本女子サッカー界をリードしてきたエースは、プレーでチームを引っ張ると宣言した。やらなければならない、という責任感もあったのだろう。澤の言葉で力を得たチームは、アメリカとの準決勝で16分に大野の得点で先制を奪うことに成功。しかし、41分、44分、70分、80分と失点を重ねてしまう。試合終了間際に荒川が1点を返したものの、2−4で敗れ、決勝行きを逃してしまった。
3位決定戦のドイツ戦に0−2で敗れ、日本女子サッカー史上初のメダル獲得は先送りとなった。それでも、中国戦後に佐々木監督が「今日勝ったことで、あと2試合北京で戦える」と語ったとおり、世界の舞台でアメリカやドイツと真剣勝負を繰り広げた経験がその後に生きてくる。とりわけ6試合で計11得点を奪えた攻撃は、佐々木監督が就任して約8カ月の新生なでしこジャパンに確かな手応えをもたらした。