オリンピックと女子選手 日本女性アスリートの活躍の歴史

1 執筆者 御免眞平
日本人女子アスリートが初めて獲得した五輪のメダル(1928年 アムステルダム大会)

日本女子、100年かけて男子しのぐ

21世紀になってからの五輪は4大会。9-7、5-4、4-3、7-5。この対比は何か。日本代表選手の金メダル獲得の「女子vs男子」の数で、すべて女子の方が多い。日本女性は本当に強くなった-。

代表選手の数でも、女性はぐんぐん伸びている。初めて男子を超えたのは2004年アテネ大会で、男子141人に対し171人。2008年の北京大会は男子より1人少ない169人だったが、2012年ロンドン大会は156人で男子の137人を上回った。前回リオデジャネイロ大会は164人で男子より10人少なかったものの、女子選手の実力は目を見張るものがある。

今でこそ女子選手にスポットライトが当たっているが、これまでの道のりは大変だった。クーベルタン男爵が国際オリンピック委員会(IOC)を立ち上げて最初の五輪を開催したのは1896年のアテネ大会。

「より速く、より高く、より強く」をスローガンとし、男子の大会としていた。体力の違いなどが理由とされた。女性の参加については、「競い合うのではなく、勝者を称える存在」との説明もある。

女性の参加は1900年の第2回パリ大会から。日本最初は1928年のアムステルダム大会の陸上の人見絹枝。日本選手で女性ただ一人だった。得意の100メートルで負けた後、800メートルで2位となり銀メダル。日本女子初のメダリストとなった。

人見はその2年前、チェコスロバキア・プラハの国際女子競技大会で総合優勝を飾っている。ところが1931年8月2日、24歳のの若さで肺炎のため死亡。1992年バルセロナ大会のマラソンで有森裕子が銀メダルを取った日は人見の命日で、二人は同じ岡山県出身というドラマを生んだ。

有森は続く1996年アトランタ大会で銅メダル。そのとき、「自分で自分を褒めてやりたい」と言い、五輪史に残る名言となった。

日本女子初の金メダルは1936年ベルリン大会の水泳200メートル平泳ぎの前畑秀子である。実はその前のロサンゼルス大会で銀メダルを取っている。この種目で記憶に残るのは1992年バルセロナの岩崎恭子の金。14歳6日の中学2年生で史上最年少の金メダリストとなった。

「今まで生きてきた中で一番幸せ」。初々しい少女の仕草と、このコメントは全国に伝わった。戦後の女子は大会ごとに活躍した。

最初のメダリストは1960年ローマでの競泳の田中聡子。100メートル背泳で銅メダル。18歳、高校3年生のとき。不運だったのは200メートル背泳で世界記録を出し続けていたのだが、正式種目になったのは1968年メキシコ大会からで、現役を退いて2年後のことだった。

初の金メダルは競泳の青木まゆみ。1972年ミュンヘン大会の100メートルバタフライで世界記録を達成して勝った。前畑以来36年ぶりの快挙だった。たくましい体から「女金太郎」と愛されたものである。

水泳で忘れてならないのは柴田亜衣。日本で自由形ただ一人の金メダリスト。21世紀最初の2004年アテネ大会で800メートルを制した。本命選手を最後の50メートルでとらえて抜き去った大金星だった。

明記しておきたい陸上選手がいる。日本が五輪に復帰した1952年ヘルシンキ大会の吉川綾子。19歳で100メートルの日本記録を引っさげて出場。当時、日本女子の陸上での出場は夢のような話だった。彼女の後、2008年に福島千里が出場したが、56年もの空白があった。

21世紀になって日本女子の活躍は想像を遙かに超える活躍をしている。マラソンで日本念願の金メダルをついに手にした高橋尚子、野口みずき。柔道の田村亮子は5大会連続5個のメダル(金2、銀2、銅1)の日本最多記録を持つ。


五輪史に残る二人の日本人女性アスリート

特筆すべき2人を紹介したい。

まずレスリングの伊調馨。2000年から前回リオデジャネイロまで五輪4連覇である。20世紀最後の大会から21世紀最初の大会を通じての快記録で、史上唯一、不滅の女子個人記録といっていい。

もう一人はソフトボールの上野由岐子。2008年北京大会で優勝に導いたときのピッチングは世界を驚かせた。2日間3試合で3連投、すべて完投。球数はなんと413球。プロ野球の連投で知られる稲尾和久に重ねて「神様、仏様、上野様」といわれた。

このスーパーウーマンを見たら、クーベルタン男爵は、「まさか女子選手が!」「まさか小柄な日本の女子アスリートが!」と目を丸くしたに違いない。と同時に100年かけて頑張った女子選手に“でかした”と、うなずいたことだろう。

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