【アスリートの原点】ノバク・ジョコビッチ:空爆の恐怖に怯えながらも失わなかったテニスへの情熱

「グルテンフリー」の食生活を取り入れ、世界のトップへ

1 執筆者 オリンピックチャンネル編集部
オリンピックの初舞台は2008年の北京五輪(右端)。優勝したラファエル・ナダル(中央)に準決勝で敗れたが、銅メダルを獲得している

ノバク・ジョコビッチはテニスのグランドスラムで15回の優勝を誇る。紛争に巻き込まれ、空爆に怯えた幼少期、試合中に倒れてしまうこともあった小麦アレルギー。さまざまな困難のなかでもテニスへの情熱を失わず、努力を重ね、世界王者として君臨している。

空爆に怯える日々を乗り越え世界のトップへ

テニスの4大大会における優勝回数は15回。2019年7月11日時点で、男子テニスツアーを手がける組織ATPのポイントランキングで世界1位につけるノバク・ジョコビッチは、東京五輪での金メダル候補として有力視されている。

テニスは18世紀から19世紀にかけてヨーロッパの貴族などの間で大流行した背景を持つスポーツだ。もともとは特権階級の遊びだったが、ジョコビッチの生まれは裕福とは言えなかった。

ジョコビッチは1987年5月22日、旧ユーゴスラビアで現セルビアの首都、ベオグラードで生まれた。豊かな自然のなか、スキーリゾートでピザ屋を営む両親の手伝いをしながら幼少期を過ごした彼が、テニスとの出合いを果たしたのは4歳の時。近所にテニスアカデミーが設立されたことがきっかけだった。

当時からテニスの世界トップをめざして懸命に練習を重ねていたものの、彼が11歳の時、コソボ紛争にNATOが介入し、セルビアへの空爆が始まった。セルビアの人々は日常的に空爆に脅かされる生活を強いられるようになったが、それでもジョコビッチはテニスへの情熱を失わなかった。「同じ場所は爆撃しないだろう」という予測のもと、あえて空爆の跡地を選び、毎日何時間も練習したという。

そして12歳でドイツにテニス留学し、16歳でプロに転向する。18歳で世界のトップ10入りを果たすと、2008年、20歳の若さで全豪オープンを制覇してみせた。瞬く間にトッププレーヤーへの道を駆け上がり、2011年には初めて世界ランク1位に輝いた。

「小麦」が原因で陥ったスランプ

若くして多くの成功を収めたジョコビッチだが、2008年の全豪オープン初制覇以降、スランプに陥った期間がある。

試合中に突然、呼吸ができなくなったり、倒れ込んでしまったりすることもあった。不調を来たした原因は「小麦」だった。ピザ屋を営む家庭で生まれ育った彼にとっては信じがたい事実だったが、アレルギーテストを行った結果、彼の体は小麦と乳製品に対して強い不耐症があることが判明した。

食事がすべての原因だとわかると、ジョコビッチは大好きなパンやピザなどの小麦製品を一切断ち、「グルテンフリー」の生活を始めた。初めはパンが恋しくて仕方なかったというが、食生活を変えると、コンディションは見る見る改善されていった。

「グルテンフリー」の食生活は、腸だけでなく、脳の働きや精神面にも好影響を及ぼした。試合中の集中力は高まり、プレーに自信がみなぎるようになった。スランプを抜けたジョコビッチは、すでに述べたとおり、2011年に世界ランク1位へと躍進。2016年には4大大会すべてを制覇する「キャリア・グランドスラム」を達成するなど、めざましい功績を残し、現代テニス界に世界王者として君臨している。東京五輪の金メダルに近い存在であることは言うまでもない。

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